【日本史】大和時代(古墳時代、飛鳥時代)

古墳時代は3C半ば~7C末の約400年間を指すことが多い。


飛鳥時代は592年~710年の118年間を指す。



以前は、古墳時代飛鳥時代を合わせて、大和時代とされていた。

今日では、古墳時代飛鳥時代に分かれている。





古墳時代(3C半ば~7C末)

実は、漢字が伝わったのは270年~310年頃である。



3C後半頃に『前方後円墳』が出現する。そのころ、大和朝廷が国内を統一する。

前期の古墳は『竪穴式石室』が多い。



最大の規模を持つ古墳は、『大仙陵古墳』(仁徳天皇陵)である。

大仙陵古墳の陵墓面積は世界最大であり、ピラミッドよりも大きい。

大仙陵古墳は、宮内庁が管理しており、許可が許されていない。

(大仙陵古墳の写真は調べてみていただきたい。とても大きい。)



後期になると、『横穴式石室』が多い。

(写真を調べてみる分かりやすい。)

土器は、古墳時代の前期から中期の初めまでは、弥生時代の系譜を引く『土師器』が用いられていた。





なぜ古墳が作られたのか。

古墳は、お墓の為に作られたわけではない。

古墳は、灌漑工事の残土である。

だから、人の骨が見つからない古墳が存在する。

感謝の気持ちを込めて、その場所をお墓として使われるところもあった。

民衆の生活を良くするために古墳が作られ、古墳を作る事に大きな目的があった。

古墳は山にも存在する。
(現在の愛知県あたりにも存在する)


このような経緯があり、古墳は現在も残っている。


(戦後教育により、豪族が古墳を無理矢理作らせたという嘘を習う学校もある。)


なぜ古墳が作られなくなるのかというと、灌漑工事の残土を堤防の工事に活用するようになり、古墳を作る必要が無くなる。

古代の日本人は、人と人が仲良くして、土地を大切にして生活していた。

1000年以上の間、古墳は、台風や豪雨などにより、壊れる事は無かった。

つまり、古墳は、人為的に壊さなければ、存在するものだ。





391年~480年は、日本と高句麗が戦った事が『好太王碑の碑文』に記されている。


413年は、日本が東晋に朝頁する。



5世紀になると、外国から『須恵器』が伝えられ、土師器とともに用いられた。


5世紀には、日本の五王(讃、珍、済、興、武)が宋に朝頁する。

武は、『雄略天皇』の事である。



513年に百済から儒教が伝わる。


527年に『磐井の乱』が起きた。

この乱の平定後、九州北部に『屯倉(みやけ)』が設けられる。



538年百済から仏教が伝わる。


587年に蘇我馬子物部守屋を滅ぼす。


588年に蘇我馬子飛鳥寺を建立した。




飛鳥時代(592~710)

蘇我氏や王族によって、仏教などが広められ、国際色が強い文化となり、『飛鳥文化』という。




592年に日本史上初の女帝である『推古天皇』が即位。


593年に聖徳太子が摂政になる。

603年に『冠位十二階』を制定する。



604年に『憲法十七条』を制定する。

この十七条は素晴らしい。
国や国民の事をよく考えている内容だ。
第1条、第13条、第17条は特に良い内容である。



607年には、『遣隋使』として小野妹子がわたった。
この遣隋使で日本と隋を対等な関係にしようとした。


大陸では、618年に隋が滅んで『唐』になった。

621年に聖徳太子が亡くなる。

630年に『遣唐使』を派遣した。




645年の『乙巳の変』で、『中大兄皇子』は中臣鎌足などの協力を得て、蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした。

大化の改新は、大きな富を持っていた蘇我氏を倒して、民衆を豊かにして、この国をもっと良くする為に行われたものだ。

(戦後教育により、クーデターだけであるという嘘を学校で習う。)


646年の正月には、『改新の詔』で、『公地公民制』を目指す政策が示された。
こうした孝徳天皇時代の諸改革は『大化の改新』といわれる。



645年~668年は、新羅の賊の記録がある。

赤渕神社に伝承する「神社略記」によると、645年に丹後・白糸の浜に来襲した新羅の賊を討伐したとされている。



朝鮮半島では、新羅と唐が660年に百済を滅ぼした。

663年の『白村江の戦い』では、親交の深かった百済を助ける為に、兵を派遣したが敗れる。

敗戦後は防衛政策が進められ、大宰府の北方に水城や大野城、南方に基肄城が築かれた。

対馬から大和にかけて朝鮮式山城が築かれた。


667年に都を近江大津宮に移した。



668年に中大兄皇子が即位して『天智天皇』になる。

668年以降、日本は遣新羅使を派遣している(780年~836年の遣新羅使は、遣唐使の安否を問い合わせる使者が送られたのみ)。


670年に天智天皇は『庚午年籍』を作成した。



671年に天智天皇が亡くなると、672年に大友皇子(天智天皇の子)と大海人皇子(天智天皇の弟)の争いである『壬申の乱』が起きた。

壬申の乱は、天智天皇の弟である大海人皇子が勝利した。


大海人皇子は、翌年に飛鳥浄御原宮で即位して『天武天皇』になる。


天武天皇は、『古事記』と『日本書紀』編纂を命じた。



675年に天武天皇は、豪族領有民をやめて、官僚制の形成を進めた。


684年に天武天皇は『八色の姓』を定めた。


686年に天武天皇が亡くなる。




天武天皇のあとを継いだ『持統天皇』は、天武天皇の政策を引き継いだ。

689年に『飛鳥浄御原令』を施行した(体系的な法典)。


690年に戸籍(庚寅年籍)を作成した。



694年に藤原京に遷都(中国の長安の模倣)。

(藤原京の綺麗な写真があるのでよかったら調べてみてください。)


持統天皇新羅が日本へ朝頁するという関係を強いた。新羅は唐との関係からその条件をのんだ。




697年に持統天皇が亡くなり、文武天皇が即位。

藤原不比等の娘が文武天皇の后になる。

701年に藤原不比等や刑部親王らにより、『大宝律令』が完成した。



708年に『和銅開珎』が発行される。



時代は710年から奈良時代になる。藤原氏が活躍する時代に突入する。


私のアメブロにも書いてある。