【日本史】元寇(鎌倉時代)  日本軍VS元・高麗連合軍

元寇

モンゴル帝国は、チンギス=ハーンにより、1206年に誕生した。

元(正式な国号は大元)は、1271年に誕生した。


モンゴルは、東欧や中央アジア、中国、朝鮮を支配していた。



モンゴルが日本に使節を派遣するきっかけになったのは、高麗人の趙彝が日本との通交を勧めたからである。


モンゴルの使節は、何度も来日していた。

文永の役の前に、6回も使者が送られている。

(使者を斬ったのは、スパイだと確実に分かっている、文永の役の後だけである。それ以外は斬っていない。)

鎌倉幕府は、大陸などから情報を集めていて、国際的な常識があった。



1271年に来日した、モンゴルの使者が武力侵攻をすると伝えて、北条時宗異国警固番役を設置した。

北条時宗は第8代執権である。


元に日本侵攻を進言した人物は、高麗人の忠烈王という人物である。





文永の役(1274)

1274年10月、元軍は対馬に襲来する。

多くの島の人が殺害される。
その際、元・高麗軍は、捕虜にした女性の手のひらに穴をあけたり、残虐な行為をしていた。

対馬壱岐島の住民は、大きな被害を受けている。


残虐なことを行った兵士は、高麗兵である。



文永の役では、『元史』日本伝によると、「日本軍は手ごわく、こちらも被害が大きくて矢も尽きたため、退却した。」と書かれている。

文永の役は、元軍は日本軍との戦闘で、元軍が苦戦であった為、撤退した。

日本軍の実力だ。

一生懸命戦った。

日本軍が強かった。





弘安の役(1281)

北条時宗は、二度目の蒙古襲来に備えて、防塁を築かせた。

日本軍は防塁を利用して、戦いを有利に進めた。



弘安の役では、日本の記録にも神風が吹いたと書かれている。

弘安の役は、元軍はかなり苦戦していた。

2ヶ月近い戦闘であった。

台風を受けて混乱して、日本軍の総攻撃により、元軍は壊滅した。



この台風は神風と言われている。

台風だけではない。



日本軍は強かった。

元軍は上陸することも出来なかった。

元軍は2ヶ月も戦い、上陸することが出来ていない。

さらに、元軍は疫病も蔓延していた。

元軍は撤退する運命であった。

勝ったのは日本の実力である。





(戦前の教科書は、神風と日本軍の実力により元軍が撤退したことも記載されていた。なぜか、戦後の学校教育では、台風の事だけを教えていて、日本軍の強さを教えていない。日教組の影響である。)





2度も元の襲来を撃退した。
凄いことだ。


日本を守る為に一生懸命だった。





○その後

モンゴルの3度目の襲来は無かったが、北九州を守る為に、たくさんのお金がかかってしまう。



北条時宗は34歳で亡くなる。
短い生涯ではあるが、彼の功績はとても大きい。



(江戸~戦前は北条時宗に高評価である。なぜか戦後教育は低評価の意見がある。)






北条時宗は偉大だ。

北条時宗は日本の救世主である。

御家人もよく戦った。





(現代の日本でも、中国の尖閣諸島問題など、外国の驚異を実感している。日本を守っていく為にも、歴史を学ばなければならない。)



【蒙古襲来・英霊に感謝】_日本人再生(元寇と、韓国朝鮮の侵略)



日本を守った先人達に感謝したい。




私のアメブロにも書いてある。

「【日本史】元寇(鎌倉時代)  日本軍VS元・高麗連合軍  日本を救った先人達」〈http://ameblo.jp/correct-history-of-japan/entry-12086092875.html〉2015年11月7日。