◎元寇
モンゴル帝国は、チンギス=ハーンにより、1206年に誕生した。
元(正式な国号は大元)は、1271年に誕生した。
モンゴルは、東欧や中央アジア、中国、朝鮮を支配していた。
モンゴルが日本に使節を派遣するきっかけになったのは、高麗人の趙彝が日本との通交を勧めたからである。
モンゴルの使節は、何度も来日していた。
文永の役の前に、6回も使者が送られている。
(使者を斬ったのは、スパイだと確実に分かっている、文永の役の後だけである。それ以外は斬っていない。)
鎌倉幕府は、大陸などから情報を集めていて、国際的な常識があった。
1271年に来日した、モンゴルの使者が武力侵攻をすると伝えて、北条時宗は異国警固番役を設置した。
北条時宗は第8代執権である。
元に日本侵攻を進言した人物は、高麗人の忠烈王という人物である。
○文永の役(1274)
1274年10月、元軍は対馬に襲来する。
多くの島の人が殺害される。
その際、元・高麗軍は、捕虜にした女性の手のひらに穴をあけたり、残虐な行為をしていた。
対馬と壱岐島の住民は、大きな被害を受けている。
残虐なことを行った兵士は、高麗兵である。
文永の役では、『元史』日本伝によると、「日本軍は手ごわく、こちらも被害が大きくて矢も尽きたため、退却した。」と書かれている。
文永の役は、元軍は日本軍との戦闘で、元軍が苦戦であった為、撤退した。
日本軍の実力だ。
一生懸命戦った。
日本軍が強かった。
○弘安の役(1281)
北条時宗は、二度目の蒙古襲来に備えて、防塁を築かせた。
日本軍は防塁を利用して、戦いを有利に進めた。
弘安の役では、日本の記録にも神風が吹いたと書かれている。
弘安の役は、元軍はかなり苦戦していた。
2ヶ月近い戦闘であった。
台風を受けて混乱して、日本軍の総攻撃により、元軍は壊滅した。
この台風は神風と言われている。
台風だけではない。
日本軍は強かった。
元軍は上陸することも出来なかった。
元軍は2ヶ月も戦い、上陸することが出来ていない。
さらに、元軍は疫病も蔓延していた。
元軍は撤退する運命であった。
勝ったのは日本の実力である。
(戦前の教科書は、神風と日本軍の実力により元軍が撤退したことも記載されていた。なぜか、戦後の学校教育では、台風の事だけを教えていて、日本軍の強さを教えていない。日教組の影響である。)
2度も元の襲来を撃退した。
凄いことだ。
日本を守る為に一生懸命だった。
○その後
モンゴルの3度目の襲来は無かったが、北九州を守る為に、たくさんのお金がかかってしまう。
北条時宗は34歳で亡くなる。
短い生涯ではあるが、彼の功績はとても大きい。
(江戸~戦前は北条時宗に高評価である。なぜか戦後教育は低評価の意見がある。)
北条時宗は偉大だ。
北条時宗は日本の救世主である。
御家人もよく戦った。
(現代の日本でも、中国の尖閣諸島問題など、外国の驚異を実感している。日本を守っていく為にも、歴史を学ばなければならない。)
【蒙古襲来・英霊に感謝】_日本人再生(元寇と、韓国朝鮮の侵略)
日本を守った先人達に感謝したい。
「【日本史】元寇(鎌倉時代) 日本軍VS元・高麗連合軍 日本を救った先人達」〈http://ameblo.jp/correct-history-of-japan/entry-12086092875.html〉2015年11月7日。